一部 天使の布比類なき雨。滂沱と打ち付ける雨は、逸見丹治の全身を重くしていた。午後から雷雨になることは知っていたが、あいにく傘は折ってしまっていた。ぐにゃりと変形した鉄の端が、歩いていると時折足に刺さる。先ほど、乱暴に傘を振り回していたら、ついコンクリートの塀に打ち付けて、おかしな形に折れてしまっていたのだった。 豪雨は多くのものをかき消してくれていた。例えば何かを叫んでも、この雨と風の音は、声を消してくれるだろう。そう思うと、 本当なら泣き叫んでしまいたいのに、しかし、ただ僅かな理性か羞恥心かが丹治を自制させるのだった。 丹治は歩くことに疲れていた。人もまばらな夜のアーケードの下に座り込むと、靴を脱いだ。シャッターが降りたこの商店街には、いつもはこの時間でもストリートミュージシャンなんかが何人かはいた。今日は誰もいない。人がいない。 靴をひっくり返すと水がこぼれた。乾く余地もないほどぐしゃぐしゃに濡れているのだが、これで少し歩きやすくなる気がした。どうせこの大嵐の中、また歩いて帰るのだから、今少し軽くなろうと気休めにしかならないのだが。丹治は少し休みたかった。さんざん暴れていたので、休息もだが頭を冷やす時間も必要だと思った。 ポケットから煙草を取り出したが、完全に湿っていた。それでもなんとかマシそうな一本を取り出してライターで火をつけてみた。が、やはりつかない。当然だった。水分を目一杯吸い込んだ煙草は重くなっている。 かっこもつかないまま、丹治は立ち上がろうと思ったが、思ったより服が重くて体が動かない。丹治は左腕の袖を少しめくった。そして小学校の時、誰かのお下がりで貰った古い腕時計に目をやった。水滴を拭わないと、時刻もよく見えない。もう夜の一時だった。ここから歩けば、急いでも自宅まで一時間はかかる。丹治は精一杯の嘆息を付いた。どうして今日はこんなことになったのか。 「あの、だいぶ濡れてますけど大丈夫ですか?」 丹治は顔を上げた。二メートルくらい前に若い女性がいて、こっちを見ている。 今の言葉が自分にかけられたものだと理解するのに、それから三秒くらいかかった。 「ああ。大丈夫だから」 何も考えずそう答えていた。何が心配されていて、何が大丈夫なのか自分でもわからなかったが、きっとそれでも濡れてるのは平気なことなんだ。 「でも、寒くないですか」 「別に」 寒い。寒い? まさか。そんなことが気になるくらい余裕がない。もっと重大なことがあるんだ。寒いとか冷たいとか何も思わない。感覚は麻痺している。 「俺、大丈夫ですから」 「そうですか。わかりました」 若い女は、そのまま歩いていった。俺は客観的にはどう見えたんだろう。惨めな姿なんだろう。どうでもいい。実際に悲惨なのだから。放っておいてくれればいい。どん底の状況ってやつを、どうせなら最後まで味わっていたかった。ここまで最悪な日も、滅多にないことだろう。ある意味では貴重なのだ。嬉しくはなかったが。だがどうせ、進んでも戻っても、苦しい道に迷いこんだのだ。だから、こんな時に人に優しくされてしまうと、何か狂う。半端に救われてうやむやになってしまうより、最後まで格好悪いままでいた方が、思い切ってはい上がれるってものだろう。今の若い女は美人な女だった。はっきりとは顔を見なかったけれど。だけど二度と会うことはないだろう。俺の人生で数少ない美人との会話があったのだ。きっとこれは、俺の悲惨さに神様が一抹の帳尻を合わせてくれたんだな。 丹治はのろのろと立ち上がった。そして、また雨の中に歩き出そうとした。だが、向かい風の突風で足が止まった。それでも進むと、暴風雨が当たって痛いので、また戻った。 人も自然も何もかも、みんな俺をはじこうとする。 「あの、タオル持ってきました」 振り返ると、さっきの女がいた。白いタオルを両手で差し出している。 「何で、あんた俺にそんな優しくしてくれんすか」 「どうして人に優しくするのに理由がいるんですか」 冷たく突き放すような俺の口調に、真っ直ぐな声が飛んできた。出鼻をくじかれた思いだった。それに、さっきより距離が近かった。顔がよく見えた。どこかのお姫様みたいだと思った。 「だって、知らない人にここまでしないでしょ」 「ほっとけなかったんです」 丹治にとって、意味不明の女だった。丹治も相当変な成りをしていたが、この女も相当イカれてる。だが、丹治はついタオルを受け取った。 「ありがとう」 「じゃ、私帰りますね」 「どうも」 女は踵を返した。 「待って。これ、どうしたらいい? いつ返せばいい?」 「あげます。好きにして下さい」 「俺も何かお礼したい」 「結構です。私、間に合ってますから」 「あっそ」 変な女はどこかへ消えていった。丹治も追いかけなかった。丹治には理解できないタイプの人間だった。 そして、また十分くらい丹治はそこで雨を見送っていた。 外に飛び出すことに躊躇したわけではない。女が丹治の帰宅方向と同じ方に去っていったもので、すぐに出れば追いかけたようでかっこがつかないと思ったからだ。それに、せっかくもらった乾いたタオルも雨にさらせばすぐに濡れてしまうので、いかがしたものかと考えていたのだ。 それでも、少しして丹治は歩き始めた。駅に寄っていこうと思った。なぜなら、駅の液晶の掲示板みたいなところに、天気予報が表示されているからだ。この異常な雨の情報がどう表示されているのか確かめてから帰ろうと思った。どうせ大した遠回りにはならない。 駅前には人がいた。丹治も電車で帰りたかったが、丹治が乗りたい路線は、かなり前に終電が発車していることを知っていた。掲示板には雨と書いていた。気温6度。こんなに寒かったか。駅から忙しくアナウンスの声が遠く聞こえる。 丹治は人の多さにつられて駅の中へ入った。人が大勢いた。アナウンスは発車時間の遅れの案内だった。大雨でダイヤが大きく乱れたらしい。 「三番線、上り電車もう間もなく参ります。えー、お客様には大変ご迷惑をおかけしております。列車が……」 終電はまだ来てないようだった。それどころか、ちょうど今から乗れそうだった。丹治は自分のずぶ濡れの格好で電車に乗ることが少し憚られる気がしたが、この騒ぎで誰も気に留めそうもなかった。地獄に仏だった。定期で改札を抜けると、ホームにも大勢の人がいたが、思ったほどではなかった。すっかり遅くなった終電は思いの外静かだった。喧騒が薄く感じられるのは、時間のせいか雨のせいか。ずぶ濡れで重くなった丹治の思考も、段々と鈍くなっていた。どうにか帰宅し、服を脱いでベッドで寝た後には、すぐに寝入ってしまった。 丹治は夢を見た。好きな女の夢。今日あったこと。ごちゃ混ぜになって色んな場面が錯綜する。 「優奈。何をしてる」 「何でそんなことをする」 「俺にどうして何も言わなかった!」 夢の中で無機質に自分の声だけが響いた。 |